こんにちは。咲やんブログを運営する咲やんです。
私のこれまでをまとめてみました。
咲やんブログってどういうことをまとめているの?ということが知りたい方は以下の記事をご覧ください。
まとめ
初めまして。DINKs夫婦の咲やんです。1991年生まれで夫は小学校の頃の同級生です。美容師として働いています。猫を2匹飼っています。
身内の死で色々とお金がかかった経験からお金の大切さを学びました。
結婚後忙しくて家事が思うように出来なかったことから便利家電を導入し、結果大満足だったのでそのことを皆様にもお伝えしたいと思い、ブログを始めました。
猫とのんびりすること、夫と話すこと、片付いた綺麗な部屋で過ごすことが好きです。
~自信がなく自己肯定感の低い学生時代~
私のこれまでを振り返ってみると、とても卑屈でいつも他人の目を気にしてとにかく虚栄心のかたまりだったなと思います。
自分に自信というものがなかったので、普通を取り繕うのに必死で。
人と関わると後からドッと疲れるので本当は一人が気楽でしたが仲間外れは嫌で…。
今思えばこれが原因では?といった点が何点か挙げられます。
人間不信のきっかけは母の家出
幼い頃の記憶に残っているのはいつもイライラしている母の姿。
ピリピリした母を怒らせないよう、常に気を遣って過ごしていました。でも、私は器用な方ではなく。
よくミスをしましたし、繊細な母に対して無神経な言葉をかけることも多く、母を怒らせるのはいつも私。
大好きなお母さんと笑顔で過ごしたいだけなのに、それはなかなか実現しません。
父は仕事で遅く、父が帰ってくると母は自室にこもり出てきません。家の居心地はよくありませんでした。
そんな日々も突然終わりを迎えます。
ある日母に言われた「あんたなんか大嫌いだった」という言葉。
いくら幼くとも、感付いてはいました。だからこそ必死につなぎとめたくて母に構ってもらいたかった。
その言葉の次に、「あんたがいい子にしてたら戻ってくるかもね」と言い残し、母は家出します。
両親はその後離婚しています。家から母がいなくなったので、当時7歳の私と当時2歳だった妹を父が男手一つで育ててくれました。
離婚なんて、今ではよくあること。
けれどこの出来事は、私のせいで父と妹から母がいなくなったということのように思えて、二人からも嫌われているのではないかと、ずっと怖かったです。
父には最後まで「本当は私のこと嫌い?」と聞くことはできませんでした。そうだ、と言われたらもう立ち直れないと思って。
母親がいない子と思われることへのコンプレックス
当時は父子家庭というものへの風当たりもまだ強く、小学校の頃は何度も聞かれました。
「咲ちゃんはどうしてお母さんいないの?」
聞かれるたびに悲しかったです。本当のことを言ったら余計に悲しくなるから、「お母さんは死んだ」と言っていたこともあったような。
父と妹と、大変ながらもそれなりに楽しい時間も過ごしてきました。
それなのに母がいないと知られれば途端に周りの目が同情や好奇の目に変わるのです。
私に至らぬところがあれば「あの子は母親がいないから」とまるで父の育て方が及ばないかのように言われたこともあって嫌な気持ちになったこともあります。
普通じゃないと言われているみたいで、自分の家庭環境が恥ずかしくて。表では気にしていないかのように振舞いながらも心の底からは堂々と出来ませんでした。
父のことは今でも大好きですし、感謝してもしきれません。
けれど当時の私は自分の不満を父にぶつけることが多く…。
対して父は寡黙で物言わぬ性格だったのでどれだけ複雑な気持ちで受け止めていたのだろうかと、今さら申し訳ない気持ちでいっぱいです。
今になって思えば、父がよく言っていた「よそはよそ、うちはうち」という言葉ほど強いものはありません。
人と比べたって仕方のないことを私はいつも気にしていたのです。
自分の気持ちを表すことが下手
小さい頃は母に嫌われたくない一心で、“自分がどうしたいか”よりも、“母は私に何を望むか”を重視して過ごしていました。
家族3人になってからも、“家族の一員でいる為にふさわしい自分”を演じるようになってしまいました。
勉強ができたら親は喜ぶ?進学校に合格すれば自慢の娘?友達と楽しく遊んでる自分を見たら親は安心する?
本来の自分というものに全く自信がなかった為に、必死で勉強して優等生のふりをして。
気が合わないとうすうす感じていた友達とも無理やり合わせて。
優しいっていつも言われてました。
人にはすっごく気を遣ってたから。その反動で家ではいつもイライラして八つ当たりして。本当に最低の性格でした。
見た目も中身も何もかも自信がなかったので、自分の内面をさらけ出せず、自分の好きなものが何なのか分からず。
浮いてるとは思われたくないから流行りのディズニーキャラの文房具をそろえ、全然興味のない歌番組を欠かさず見て、話題のアイドルを必死に覚え…。
誰かと喧嘩することはないけどすごく仲が良い子もいなくて、という学校やクラスが変わるたびにリセットされる交友関係と共に学生時代を送っていました。
優等生の仮面がはがれる時
優等生を取り繕えていたのは中3の途中まで。
その頃社会人の彼氏が出来ました。
なぜか彼氏には、自分のわがままな部分も、気を張ってない部分も見せることができまして。一緒にいてとっても楽だったのを今でも覚えています。
人といてそんな気持ちになるの久しぶりだったもので。家にいるよりも、学校で過ごすよりも楽だったので。
ずっと彼氏といるようになってしまって家にも学校にも寄り付かなくなってしまいました。わかりやすい。
高校には進学しましたが、休みがちですぐに単位が足りなくなり高1での留年が決定しました。
真面目の代名詞、とも言えるくらい成績・生活態度共に問題のない学生生活を送っていた私が家出、捜索願、留年と道を踏み外していったので周りはさぞ驚いたことでしょう。
でも、せいせいしました。だいぶ無理をしていたようです。
勝手に真面目だと思われて、何をしても怒らなそうだとなめられて。
自分が作り上げた虚像がどんどんひとり歩きするので、些細なことでイメージと違うと周りから幻滅されます。
もうとっくにキャパシティオーバーでした。
好き勝手させてもらって一度落ち着き、次の年から再び高1をやり直しました。
4年間在籍した高校は楽しかったです。もう優等生のふりをしなくてもいいんだ、と気楽になりました。
一度つけてしまったさぼり癖はたまに顔を出しましたが、周りの方の支えもありどうにか無事卒業することが出来ました。
結局彼氏とは23歳まで8年間付き合い、価値観の不一致で別れます。
夫との出会いは職場
コミュ障でしたが美容師になりました
高校を卒業し、美容専門学校を卒業し、美容室に就職します。
私は自分への自信のなさから、次第に人と関わることに苦手意識を覚えます。
しかし何らかの職にはつかないといけないので、色々あって美容師として働き始めました。
お客様と対面で話す状況になると緊張で汗が吹き出したり、アシスタントで入っていても私なんかじゃお客様が嫌なんじゃないかな?と不安になったり。
この人見知りというか、極度の自己肯定感の低さを克服するのにだいたい7年ほどかかりました。
夫はお店のお客さんでした
小学校の時の同級生だった夫とは職場で成人式以来の再会。
お客さんと美容師という立場で会話をする機会が多く回数を重ねる毎に共通点などが見つかり、そのうち付き合うようになり、のちに結婚しました。
私は一度転職をしているのですが、夫とは現在働いている美容室での出会いですので、ご縁って不思議だなと感じました。
自信のなかった私を変えてくれたのは職場と夫
中身のない自分が薄っぺらく感じ、誇れるものもなく。周りと比べては劣等感に苛まれ。
そんな自分が恥ずかしかったのですが、それにも関わらず職場の皆や夫は優しく接してくれて本当に救われました。
私は自分の意見を言ったり話し合うことが苦手でした。誰かと話してて意見が食い違ったら、すぐに相手の意見に賛成していました。
しかし夫は討論が大好きで。
自分の意見をころころ変える私に対して「それはおかしい」と指摘するのです。
自分の思っていることを言葉にするのが下手で、話し合うことも苦手な私は人から否定されたくなくて全部相手に合わせていましたが、それが通用しない夫は付き合いにくい人だなと感じました。
が、おかしかったのは自分の方だと認めて。
気付かない振りをして逃げてきた自分の嫌なところや駄目なところと向き合って。
大人になって初めて、これまで蓋をしてきた自分と向き合えたような気がしました。
自分の思っていることを言ったら相手が私を面倒に思って離れていくのではないかと長年不安に思っていたのですが、そういう人もいますし、そうじゃない人もいるとようやく理解しました。
夫と過ごしていくうちに、自分は受け入れられている、と感じられることも増え、怖がらずに自分を出せるようになっていきました。
美容師として日々色々なお客様と触れられたことも人見知り克服に大いに貢献してくれたと思います。
本当に色々な方がいて、それぞれ考え方があって。
どれが間違っているとか、誰が正しいとかって言うのは見方や物差しが変わると捉え方が変わる曖昧なものでしかないと実感して。
私も私でいいのかもしれないと思えるようになっていきました。
私から見たお客さんも、皆さん色々ですけど皆さん素敵だなと思いましたから。
結婚後の生活の変化
家事と仕事の両立が時間的に難しい
結婚したものの、美容師という仕事は夜は残って練習するのが当たり前。私は他のお店と比べるとずいぶん早く帰れていたと思いますが、それでも帰宅時間は20時を切ることはほぼありませんでした。
定時上がりの夫より二時間以上帰るのが遅く、その間手持ち無沙汰な夫は実家で時間を潰す日々…。
夫には家のことを少しでもしておいてほしいけれど、自発的には動いてくれないので毎回事細かに指示を出す必要があります。
頼み方やタイミングによっては空気が悪くなることもありましたし、何よりその日のやって欲しいことを事細かに伝えるのが面倒なので結局自分でやる方が楽でした。
そうなると仕事の日は掃除機もかけられませんし、帰ってから洗濯や料理や片付けに終われ、すべてが中途半端でした。
不妊治療が始まる
結婚と同時に近所のクリニックで不妊治療に通い始めます。
本来は残って練習をするべきところ、仕事が終わり次第早めに切り上げさせてもらいながら病院に通いました。
毎回予約時間に間に合うかやきもきしながら通い、長い待ち時間の末帰宅。
帰宅してから大急ぎで家事に取り掛かる。
遅い帰宅でもにこやかにソファで出迎えてくれる夫にも「何もせずダラダラと!」とイライラ。
不妊治療が始まってからは精神的な余裕が消え去っていたので、相手を思いやることがほぼ出来なくなっていました。
一番楽しいはずの新婚の期間は生活の変化に上手く対応できず常に余裕がなかったように思います。
そんな時お金について考え直すきっかけとなる出来事が起こりました。
お金について考えるようになるきっかけ
私は結婚するまで、お給料は使い切ってしまうタイプでした。あればあるだけ使います。
深く考えず、その場で欲しいと思ったものを買っては飽き…。どれだけ無駄遣いをしていたか、考えるのが怖いくらいです。
それでも少しずつは貯金できていたので、このぺースで大丈夫、と根拠もなく過ごしてきたのです。
父の死
ある日、外出中に倒れて意識を失った父は救急車で運ばれ、入院となりました。
警察からの連絡で入院先に駆けつけましたが、父の容体は悪く、医師には治療が出来ないということを告げられました。
1日ごとに容体は悪化していき、約1週間後に父は死亡しました。
その間私の心はぐちゃぐちゃでした。
希望と絶望と不安が入り乱れて。
もしかしたら病気が良くなって退院できるかもしれないなどと。根拠のない奇跡を信じたくなる日もあれば。
父が長くないのは明らかなので、実家を今すぐ片付けてしまわなければならないという焦りもあり。
もしもこのまま植物状態で生きながらえるとなると、ふくらんでいく医療費を工面できるだろうか?という漠然とした恐怖も襲いかかり。
父が亡くなるまでの1週間は、とても長く感じました。
こんなことを言ってはいけないのですが、もっと長く生きて入院していたなら私は色々な不安に押しつぶされていたかもしれません。
当時持っていた貯金は100万円ほど。
この金額は、アクシデントに対応するにはあまりにも心許ない金額なのだとようやく実感しました。
貯金がほぼなくなる
父の医療費や入院費、葬儀に関する費用が50万円ほど。
賃貸だった実家を整理、遺品処分、引き払う為に生じた費用が30万円程。
父が生前契約していたサービスなどの諸々の解約に追われ、父と同居していた妹の新生活の為の引越し代などの費用も負担して。
貯金がみるみるなくなり、毎日お金のことが気掛かりでした。もしも足りなかったら、高額の請求が来たらどうしようと不安でいっぱいでした。
保険や制度に助けられる
父の入院中、父の会社の方が今後の事を話し合う為にと場を設けてくださいました。
その際、高額療養費制度というものがあるよと教えていただいたのです。すぐに限度額適用認定証というものを手配してくれました。
この認定証を病院の窓口で提示すると、医療費の自己負担額に上限が出来るのです。
こちらのお陰で、父の医療費や入院において発生した費用などの私の負担額はわずか11万円ほどでした。
本来はもっと高額な費用がかかっていると思うのですが、社会保険が自己負担額をオーバーした分を全てカバーしてくれたのです。
何十万円という請求が来たらどうしよう…と不安に思っていたので、病院からの請求書を見た時は思った以上に安くて驚いてしまいました。
その他にも、父は医療保険に入っておりました。こちらは入院した場合保険金が下りる契約のものでしたので、こちらも申請させていただきました。
父が亡くなったことに起因する様々な出費は、結果的にはマイナスにならずなんとか100万円内で収まることになったのでした。
正直、複雑な気分でした。事前に何とかなると知ってさえいればよかったのに。
高額療養費制度というものがあることや、医療保険の詳しい仕組みを私は何も知りませんでしたから。
自分には関係がないものだと思っていて、興味を持ったことがなかったのです。
事前にこういった制度について知っていれば、私は純粋に父の心配だけを出来たでしょう。
しかし私は無知でしたので、死にそうな父を前にして自分のお金の心配をしてしまいました。
そして、こんな自分はとても嫌な奴だ、と自己嫌悪しました。
父には1日でも長く元気でいて欲しいと思いたいのに、入院が長引くことで自分に降りかかる問題が怖くて怖くて。最低だと思いました。
困った時に頼れる制度があるということを事前に知っていれば、もっと余裕を持って父との最後の時を過ごせたのかもしれません。
大好きな父の最期を複雑な気持ちで迎えてしまったことが父にとても申し訳なくて。
もうやり直せませんが、繰り返さないことは出来ると思って。
私はその後、テキストを買ってFP3級の資格を取得しました。
実際にお金のことがわかりだすと色々と楽しくて考え方の幅も広がるので以前よりもずいぶん自由になった気がします。
便利家電を頼るようになる要因は不妊治療の時間的負担
新生活を始めるにあたって、最低限必要な家電をとりあえずそろえていました。
食洗器やドラム式洗濯機やロボット掃除機などというものは実家でも使っていなかったので、そういった家電にはあまり関心がなく。
すべての家事を完璧にしたいという理想と時間のなさから全然思い通りに出来ないという現実があり、生活を送るうえで徐々にストレスが溜まっていきました。
不妊治療がステップアップし、時間の余裕はほとんどなく
結婚と同時に開始した不妊治療ですが、かけた時間やお金が増えていくに従い、期待や焦りが募ります。
けれども、一年たっても二年たっても妊娠には至りません。
近所のクリニックでは人工授精までしか対応しておらず、次の高度不妊治療に進むために私は対応してくれる病院へ転院しました。
近所のクリニックへ通院していた頃でさえ時間がなかったのに、さらに遠方の病院へ週に数回通うことになったのです。
家での時間はさらに減ることになります。
早発卵巣機能不全の発覚で精神的余裕もなくなり
体外受精へ進む為の検査を進める中で、早発卵巣機能不全という病気が発覚。
まだ若いし、これから体外受精をすれば希望がある、と思っていた私たちにはまさに青天の霹靂。
実際に治療に進んでも成果は芳しくなく、数字や状態で優劣を示されているかのような体外受精の進捗状況のひとつひとつが私を絶望に突き落とします。
注射は効きにくく、卵胞も育たず、一つでも卵子が取れれば良い方で。
思うように進まない結果を突き付けられる度に自分の体がダメだと言われているようで、情けなくて仕方がありませんでした。
手が届かないと思うと余計に子供を持つことに執着してしまって、周りと比べては落ち込むばかりです。
働いていても、家で過ごしていても、旅行に来ている時でも、いつになれば妊娠できるのだろうかとそれしか考えられませんでした。
のんびりダメもとでとか、気分転換をしながら、と構えることが出来なくて。
精一杯頑張って毎回100%で臨んでダメな中、幸せそうな周りを見るのが嫌で嫌で。
病院と仕事との両立が困難
今までは月に6回ほどの通院だったのが、体外受精に進むと多い時で週に3回ほどに増えました。
薬の効きやタイミングによっては予定していた日に治療が進められず二日後に延期、などなど自分の体のこととは言えイライラしっぱなしでした。
美容師という職業柄、お客様ありきで動くのですが私が抜けるとなると本来とれるはずの予約が取れずお店にも多大な負担と迷惑をかけてしまいます。
職場にも無理を言ってやっとの思いで診察の時間に抜けさせてもらい、卵胞の育ちがまだだから明日も来てと言われれば、急なことですみませんとまた頭を下げてお願いして。こんなことが毎月、何回も。
そこまでしても妊娠の気配は全くなく。
家事にあてる時間もなく、する気力もなく。
精神的な余裕のなさは、職場でも家庭でも、治療においても全てに悪影響だったと思います。
便利家電に頼りながら生活を立て直し
最初に買ったルンバは私にとって救世主
朝早く仕事に出かけ、病院から帰れば夜9時前。
集合住宅に住んでいたので、朝早くの掃除機も夜遅くの掃除機もはばかられ。掃除機は休みの日にしかかけられない状態が続いていました。
本当は綺麗好きなのですが、床はいつも髪の毛や埃、小さいゴミなどが落ちているのです。
死ぬ訳じゃないし、と気にしないようにしますが、やはり理想の状態とかけ離れすぎているとイライラしてしまうのです。
特に私は不妊治療で情緒不安定な化け物になってしまっていたので何がきっかけかは覚えてすらいませんがよくケンカも勃発していました。
子供が欲しいと思って夫婦で協力しながら頑張っているはずなのに、些細なことから喧嘩になり、この人とは分かり合えない!と思ったりとなんとも空しい日々でした。
そんなギスギスした生活を解消してくれたのはお掃除ロボットルンバでした。
価格は確かに高価でした。けれども家に帰ってきたら床がキレイ!
家がキレイだということが、ストレスにまみれた生活の中で唯一のオアシスになってくれたのです。
毎日疲れて帰ってきて、余裕がなくてイライラしていて、部屋すらも片付いてなくて更にイライラして八つ当たり…といった悪循環からなかなか抜けられずにいた私をルンバが助け出してくれました。
大袈裟ですが、自分ではどうする気力もなかったので帰ってきて家が片付いている状態、というのは本当に嬉しかったのを今でも覚えています。
こうして荒れていく一方だった生活を変えてくれたルンバのおかげで、他にも色々生活が楽になるものがあるんじゃないかと目を向けるようになっていったのです。
便利家電の導入に伴い、余裕が生まれて夫婦仲も改善
その後ドラム式洗濯機、食洗機、スマートスピーカー、電動自転車など…。
この家電を購入したら二人の生活がこういう風に変わるよね、と相談しながら徐々に便利家電を導入していきました。
今では二人でゆっくり晩ご飯を食べたり、なんてことない会話を楽しんだりと余裕を持って毎日を過ごせています。
あれをしなきゃ、これをしなきゃ、と家事などに追われることが少ないので、私も以前と比べると別人のように穏やかになりました。夫とのいさかいもほぼ起こりません。
結婚当初は何でも自分で完璧にこなしたいという思いがありましたが、私には無理だと認めたことで楽になりました。
お互いに好きなことをして、苦手なことを補い合い、生活をより良いものにするためにどういった方法が取れるか?と定期的に話し合う今の生活はとても幸せで信じられないくらい平凡です。
結局不妊治療は卒業しました
この病気であっても妊娠の可能性はありますが、私はきっぱりと諦めました。
お金や時間をかければかけた分だけ意地になってしまうので、私には良い結果をもたらしません。
仕事との両立が本当に難しいので、治療を辞めてすっきりしました。
治療を続けていた場合は仕事を辞めていたと思います。どちらが良かったのかはわかりませんが、私は今の状態に満足しています。
努力をしても結果を出せなかったというのは、ある意味私の挫折という経験になりましたが不妊治療をしてきたこの4年間の経験はとても貴重な時間や学びになりました。
私は自分の価値を周りに認めてもらうことで自分の存在を許してもらえるのだと、歪んで育ってしまいました。
私は子供を産むことで妻として、嫁として、母として世間に認めてもらおうとやっきになっていたのかもしれません。
子供を持たないという生き方を選んだことによって、ようやくありのままの自分で過ごしてもいいのだと認められた気がして。
私たちはDINKsとして、お金について学びながら将来について対策していこうという方向で日々過ごしています。
信じられないほど長くなってしまいました。
ここまで目を通してくださってどうもありがとうございます。
こんな私ですが皆様に役立つ情報をお届けできるように頑張っていきますので、よろしくお願いします。
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